日本近現代史(日文)之七

2005-09-06 来源:和风论坛  【 评论:0 收藏

2-2 明治の日本社会
2-2-1 大逆事件と足尾鉱毒事件
 明治時代の日本社会は、文明開化に始まり、富国強兵政策による欧米列強に追いつき、追い越せが国民的ナショナリズムになり、日清、日露の戦争で、その意識は最高潮に達したが、その一方で自由民権運動のように、欧米社会の持つ、民主主義のシステムや人権思想が紹介され、その実現も目指された。国家主義的なイデオロギーと個人の権利の実現とが共存した一見矛盾した風潮が社会に流れた時代でもあった。これは新しい国づくりを目指した人々が、欧米の社会のさまざまなシステムや思想をすべて一度に吸収しようとしたからである。そのために、現代から見てもきわめて先進的な思想が現れたり、社会的行動が起きたりもした。その代表的な事件が大逆事件であり足尾鉱毒事件であった。

 自由民権運動の限界は、欧米の革新思想であった社会主義思想によって乗り越えられた。それは自由民権運動が、結局は貧しく差別されていた人々の自由を求める声に応えることができなかったからである。自由民権運動の後期にはそのことを感じ取った人々の中に、階級的な矛盾を解決しなければならないとの主張も現れていた。そのことを知った民権運動の指導層は即座にそれを切り捨てようとした。自分たちの首が危なくなるからである。帝国憲法と帝国議会の成立と同時に民権運動は消滅したが、一方でこれらの人々は運動を進化させた。

 それが、日本における社会主義運動の始まりと社会主義政党の成立であった。欧米の社会主義思想の影響を受けた人々、片山潜、安部磯雄、幸徳秋水、木下尚江、西川光二郎らは1901年、日本最初の社会主義政党「社会民主党」を結成した。その綱領のなかで、彼らは「人類平等」「軍備全廃」「階級制度廃止」「土地、資本の公有」「財産分配の公平」「参政権の平等」「教育の機会均等」を主張した。明治の日本社会にとっては極めて先進的内容であった。しかし、政府はこれを認めず、政党の結成を禁止し、綱領を発禁処分にした。明治政府にとってはとても受け入れることのできない内容であった。しかし、このことは日本のさまざまな人々に大きな影響を与えた。労働者たちは労働組合の結成を目指して運動を起こした。

 選挙権のない貧しい人々は普通選挙を求める運動を開始した。女性の解放を求める女性たちは日本ではじめての女性解放運動を起こした。このような社会運動の盛り上がりの中で起きたのが、日本最初の公害反対運動である「足尾鉱毒事件」である。古川鉱業によって開かれた足尾銅山から流れ出た硫酸銅などを含んだ排水が渡良瀬川に流れ込み、流域住民に大きな被害を与えたのがこの事件である。川から魚影は消え、水田の稲は枯れ、鉱山用に木々が切り倒された山々は禿げ山となり、洪水が襲った。これらの被害を調査し、帝国議会に被害の実情を訴えたのが、国会議員であった田中正造である。田中は、議会において鉱山の営業停止を求めたが政府はこれをみとめず、渡良瀬川の洪水対策として、下流に遊水池を作ろうとして、下流村落の立ち退きを強行した。流域住民はこのような政府の対応に怒り、強訴を持って抗議した。

 政府は警官隊を派遣してこの抗議を圧殺した。田中は議員を辞すると帝国議会と政府の無力を悟り、有名な天皇直訴を決行した。もちろん、天皇は彼の訴えに応えるはずが無く、精神異常者として彼は社会的に抹殺されてしまった。政府は何度かの調査を形式的にはしたが、結局はうやむやにしてしまった。これが、足尾鉱毒事件の概要である。しかし、田中正造の行動は明治の社会主義者や人権活動家に大きな影響を与え、後世まで伝えられることとなった。

 明治における社会主義運動の開始と、社会主義政党の結成、労働組合運動の開始、足尾鉱毒事件へのそれらの人々の広範な支援活動、これらの動きに政府は極めて過敏であった。政府の進めていた天皇を中心とした国家主義的政策と真っ向から対立するものだったからである。明治の比較的自由であった言論界、出版界において、それらの人々が展開する反戦論や社会論は、政府の政策を真っ向から批判していた。そのことの影響は明治の知識階級の間には確実に浸透しつつあった。もし、これを放置すれば、一般の国民層にも影響をもたらすことは確実であった。政府はこれらの運動を圧殺する陰謀をたて、実行した。これが大逆事件である。事件の概要は、明治の社会主義者の中でもっとも過激であり、それ故にもっとも鋭い政府批判をくり広げていた幸徳秋水とその一派を天皇暗殺を企てたという容疑で逮捕、処刑した事件である。しかし実際には、幸徳の支持者の一人が天皇暗殺計画を考えたというだけのことで、そのための実際的準備も行動もなく、「妄想」に近いものにすぎなかった。どこでその妄想を知ったのか、政府はこれを実際的な計画としてねつ造し、幸徳と社会主義者たちを逮捕したのである。

 逮捕者、実に数百名、内起訴されたもの26名で、裁判は全くの非公開で行われ、一審のみで幸徳ら12名に死刑判決が下された。処刑は判決後わずかに1週間後に行われ、国民には事実が全く知らされなかった。この事件以後、黎明期にあった明治の社会主義運動は全くの冬の時代に入り、昭和の初期の復興期まで運動は途絶えることとなった。

コラム 足尾鉱毒事件
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 足尾鉱毒事件は、1970年代になって、日本で広く知られるようになり、映画まで作られた。

 それは、日本の高度成長経済が生み出した公害が社会問題化したからである。水俣ではチッソ水俣工場の有機水銀を含んだ排水が海を汚し、多くの人々の命を奪った。水俣の公害問題に立ち上がった人々は、同じことが明治の日本でも起きたことを知ったのである。足尾で起きたことが、昭和の日本でもおき、政府は同じように、公害を出した企業を守ろうとし、被害者を切り捨て、公害反対に立ち上がった人々を弾圧したのである。80年の時間を超えて、この二つの日本を代表する公害事件はつながったのである。田中正造の生き様は昭和の人々に感動を与え、荒畑寒村の書いた「谷中村滅亡史」は多くの人に読まれたのである。日本を代表する性格俳優の三国連太郎が演じる田中正造を描いた映画、「濫婁の旗」は日本中で上映されたのである。足尾鉱山は今、日本の公害の原点として資料館が造られ、多くの若者が修学旅行で訪れる地となっているのである。

コラム 大逆事件の真相
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 大逆事件の真相は、長い間闇に包まれていた。政府が資料を公開しなかったことと、民間でも長らく知られなかったからである。戦後、多くの歴史家がこの事件についての真相究明のための研究を行った結果、現在では、この事件は全くのでっち上げであり、えん罪事件であったことがわかっている。この事件の被告で、唯一戦後まで生き延びた、坂本清馬は1961年、最高裁判所に対して、この事件の再審査を請求し、事件の真相と明治政府の陰謀を明らかにしようとした。しかし、最高裁判所は、幾多の証拠があるにもかかわらず請求を棄却し、政府の責任も真相も闇に葬ろうとしたのである。

2-2-2 産業革命の始まり
 日清、日露戦争の時代は、日本の産業革命の時代でもあった。それは明治日本の産業の発達グラフを見ても明らかである。なぜならば、日本の産業革命、つまり工業化と資本主義社会の確立が、政府主導による軍需産業(造船業、製鉄業、武器製造業)と製糸業、紡績業によってなされたからである。

 二つの戦争は軍需産業をさらに発展させ、海外植民地の獲得は繊維製品の輸出をうながしたのである。つまり、戦争とそのための軍備増強によって日本の産業革命は行われたのである。しかし、そのことは、日本の初期産業が、前記のような産業部門に偏ったことにより様々な問題を残すことにつながってしまった。軍需産業の育成は、政府の巨額の資金援助によって行われ、その後、民間に払い下げられた。そのことは政府をバックにもつ巨大軍需産業が民間企業として育つことを意味した。

 日本の産業構造が、軍需産業を中心にした、独占企業によって支配されていったのはこのためである。三井、三菱、住友、古河、久原といった、財閥形成がこの時期にされていったことは重要なことである。軍産複合体としてのこれらの財閥が政治に大きな影響力を持つようになったことは、後の日本の侵略戦争の大きな原因にもなったのである。このようないびつな産業の発達は、決して日本の国民の生活を向上はさせなかった。軍需産業の工場で働く労働者の生活は悲惨なものであったし、輸出用の生糸を紡ぐ、製糸工場は若い、女子労働者の劣悪な労働によって支えられていたのである。産業革命による工業の発達は国民の生活を向上させなかったばかりか、農村の荒廃をも生み出した。

 輸出用生糸の増産のために、日本の農村地帯では養蚕が奨励されたが、その値段は国際市場に左右され、生糸相場が下がるたびに、農民たちは辛酸をなめたのである。広汎な産業部門の発達と、それに呼応した農村から都市への人口移動と雇用の増大、そして、消費生活の向上といった、産業革命がもたらす果実はようやく大正時代になって少しづつであるが実現したのである。

コラム ああ野麦峠
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 日本の産業革命と労働者の悲惨な現実をあつかったものに、有名な「ああ野麦峠」がある。この小説は、明治期に製糸工業で栄えた、長野県岡谷の製糸工場で働く、岐阜県からやってきた、飛騨高山の十代の女工たちの物語である。映画にまでなり大ヒットしたこの物語のなかで、10代の若い女工たちは、まるで奴隷のように鍵をかけられた部屋に閉じこめられ、一日15時間も働かされ、低賃金と不衛生な職場で健康を害して死んでいった。日清、日露の戦争で日本が勝利し、日本中が沸き立つ中で、一方ではこのような悲惨な労働条件で人々が働かされていたという現実は昭和の日本人にショックを与えた。

 なぜなら、日本人の多くは明治の日本に「発展する日本」という幻想を見ていたからである。明治という時代は一部の政治家と軍需産業、そして農村を支配していた地主たちにとってのよき時代であり、一般の国民にとっては決してよき時代ではなかったことを、この物語は教えてくれたのである。

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